シベリア抑留者支援・記録センターについて

捕虜・抑留体験を語り、聞き、書き、描いて、

次の世代と世界に伝えよう!

シベリア抑留者支援・記録センターに

ご参加とご協力を!

 ソ連による日本人捕虜・抑留被害者支援・記録センター
     <2011年4月設立>
 シベリア特措法を生かして正確な実態解明を。

 記録と証言を保存・発信し、未来への教訓と貢献を

―被害者とともに歴史を明らかにし、人道・人権・平和のバトンを未来に引き継ぐために―


【趣旨】

  戦後67年を経過し、元シベリア抑留者の平均年齢は89歳に達し、社会的にも生活上も多くの困難に直面しています。昨年成立した「戦後強制抑留者特別措置法」にあるとおり、過酷な体験を記録し、実態を解明するとともに次世代に継承していく取り組みを社会を挙げて行うことが必要です。元抑留者を支援・介助しながら、体験を記録し、継承・発信していくことを目的とし、元抑留者の自宅訪問、体験聞き取り、資料収集・記録、講演会などの開催、資料の発行などを行います。日ロ政府などへの提言も積極的に行います。

井上馨・画

【設立の経緯】

  従来、「全国抑留者補償協議会」「捕虜体験を記録する会」など元抑留者による自主組織が中心に行ってきた元抑留者の互助活動や記録事業が、当事者の高齢化によって中断・廃止に追い込まれてきています。広島・長崎の被爆、沖縄戦などに比べて、60万人の日本人捕虜・民間抑留者がソ連・モンゴルに抑留され、約6万人が現地で死亡した悲劇は、あまり知られていず、関心を寄せる若い世代も少ないのが実情です。体験者はあと数年でほとんどこの世を去ることになります。長年の働きかけでようやく2010年「戦後強制抑留者特別措置法」が制定されたのを機に、抑留当事者だけでなく、戦争を知らない若い世代にも正確に事実を伝え、世代を越えて関心を寄せる市民を発掘し、歴史を継承できる人材を育成していくことも目的とします。

 当面、講演会・研修会の開催、元抑留者の自宅訪問・聞き取り、資料の整理作業、政策提言などを中心に活動していく予定です。ぜひ、ふるってご参加ください。

山下静夫・画

【会員制組織】以下の各種会員・ボランティアを募集します。会費をいただきます。

①会員(会費=年間3,000円) ②賛助会員(会費=個人年間5,000円 団体年間1万円) 

③協力ボランティア・学生(会費=年間1,000円) *会費は郵便振替口座にお送りください。

<運営の仕組>

世話人、顧問、研究委員・記録委員・広報委員、会員、ボランティアなどで構成・運営します。 

■世話人=猪熊得郎・村山常雄・池田幸一・岡野工治・白井久也・有光健 監事=新関省二

■顧問=平塚光雄・大野清・円より子・内海愛子

【活動内容】

①「捕虜・抑留体験を語る会」、講演会、シンポジウム、研究集会、ビデオ上映会などの開催

②捕虜・抑留者体験者の記録・証言収集、実態・原因等の解明に関わる資料収集・情報提供

③捕虜・抑留者体験者・家族の表現・出版活動の支援、旅行や移動などの支援・介助

④体験記録や調査、報告などの出版・情報発信(年2回程度通信を発行予定)

⑤旧ソ連・モンゴルの関係者・研究者との交流・研究奨励(研究奨励賞など)

⑥政府などに対する提言・社会啓発(映像やインターネットなどの活用)

<英文名称=The Support & Documentation Center for the ex-POWs and Internees by Soviet Russia after the WWⅡ, Japan (SDCPIS)

 ロシア語名称=центр Поддержка и документации бывших  военнопленных и интернированных Советской Россией после Второй мировой войны,Япония>

 

◆事務所・連絡先 〒102-0073 千代田区九段北4-1-31-401 ☎03-3237-0217 Fax03-3237-0287

◆E-mail: cfrtyo@aol.com

◆郵便振替: 00180-3-464926 「シベリア抑留者支援センター」

◆銀行口座: 三菱UFJ銀行市ヶ谷支店(普通口座)1420371 同

 *ご希望の方には資料や申込書をお送りしますので、電話やFax、Eメイルでご請求下さい。

 

私たちのユーザー

ここでは常連ユーザーについて記述することができ、なぜこのプロジェクトが重要なのかを伝えます。 訪問者へ動機を与えることが、ウェブサイトに戻ってきてくれることにつながります。

「シベリア抑留」とは 1945.8.23.⇒1956.12.26.

 1945年8月第二次大戦が終わった後で、当時「満州」(中国東北部)、北朝鮮、南樺太(サハリン)にいた日本軍兵士らが、ソ連(現在はロシア)軍捕虜になり、武装解除されました。そして、「東京に帰す」とだまされて、ソ連領に移送され、ソ連・モンゴルの各地の収容所に送られて、過酷な強制労働を強いられました。

 「シベリア抑留」と呼ばれますが、送られた先は、シベリアだけでなく、モンゴルや中央アジア(現在のウズベキスタン、カザフスタン、キルギスなど)から西はヨーロッパのモスクワ近くまで、北は北極圏、東はカムチャッカ半島にまで及びました。収容所は2300以上といわれています。

 送られた軍人らは約60万人、その中には民間人や女性、子供もいました。朝鮮や台湾出身の軍人らもいました。氷点下40度を下まわる寒さと食料不足、厳しすぎる労働(いわゆる「シベリア三重苦」)で、約1割の6万人以上が亡くなりました。捕虜をすみやかに家族の元に帰すとした「ポツダム宣言」にも、捕虜の人道的な取り扱いを定めた「ジュネーブ条約」にも違反した、大規模な拉致事件でした。

 戦争が終わった後の1945年8月23日に当時のソ連の指導者スターリンが出した秘密命令によって、移送・抑留が始まり、各地の炭坑や鉱山、建設現場、工場、農場などで、第二次大戦で失われたソ連側の労働力を補うために、使役されました。一番過酷だったのは、鉄道建設のための森林伐採や敷設作業で、極寒の森の中で多くの犠牲が出ました。

 大半の捕虜・抑留者は3~4年で帰国できましたが、一番長い人は1956年までの11年間もソ連で抑留され、戦争犯罪者やソ連の国内法違反者として裁かれ、囚人として牢獄で暮らした人もいました。1956年10月に「日ソ共同宣言」が調印されて、同年12月に最後のソ連からの引揚船「興安丸」が舞鶴港に帰ってきました。

 亡くなった人たちは、戦闘で倒れたわけでなく、食料・医薬品不足のため栄養失調と病気で、静かに亡くなっていった人がほとんどでした。50万人を越えるほぼ全員の資料がロシア側に残されており、亡くなった方の埋葬地も特定されていますが、現在までに収集され、帰国できた遺骨はまだ半分にも達していません。

 収容所の中では、当初の日本の軍隊組織が解体され、民主化を求める運動も起きます。日本人同士の対立で、激しい抗争もありました。また、帰国後も大半の元抑留者は「共産主義者」ではないかと警戒され、「シベリア帰り」と呼ばれて、就職差別を受けたり、地域でも疎外されました。

 そうした事情から、元抑留者の多くが、その体験を家族にも話すことがなく、つらい記憶として胸に秘めて戦後を送ってきました。敗戦時に海外にいた軍人らは約310万人で、その中の5人に1人がソ連に送られました。家族や親せきに抑留体験者がおられた方々が多いのではないでしょうか。戦後の歴史の中であまり知られていない、教えられていない事件であり、悲劇でした。